日本の森、モリのニッポン紀行

2020年12月6日からnote版「日本の森、モリのニッポン紀行」(https://note.com/samsil_life)に引っ越しました。

【讃岐國】寒川郡・多和神社。

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多和神社の二ヶ所ある論社のうち、長尾の多和神社は讃岐平野から讃岐山脈を越え阿波に向かう道沿いに鎮座する。
神社に向う途中、「へんろ道」といって四国霊場巡りのお遍路さんが行き来する道があった。

大通りから一本なかに入った、車だとすれ違いができない一台幅の狭い道。
讃岐といえば讃岐うどんが有名で通りすがりに、本当に本当にたくさんのお店を見かけた。
だけど多和神社に向かう途中には目にすることはなかった分、お遍路さんの姿を多く見かけた。
ひとりで歩いているひともいれば、集団で歩いているひとたちも。
「へんろ道」と矢印の出ている道を走っていると道沿いに堂や石仏、小祠などがまつられていた。

また遍路の途中で命を落とした物故者の名前が刻まれた碑も立っていた。
様々な思いや悩みを抱えながら遍路の途につくひとがいることをどこかの本で読んだ記憶がある。
四国の長い道のりをお大師さまと同行二人しながら心の傷を癒し新しい道を目指すひともいれば、それが叶わなず道半ばになってしまうひともいることをその碑から知った。
僕の祖父母は健在だったとき、年に数回四国の霊場巡りをしていたし御朱印を押した掛け軸を飾っていたりしたので、幼いころから何となく身近に感じてきたけど、僕の知らない四国遍路の姿がそこにあるような気がしてならなかった。

多和神社までの道は上り基調だったけどシングルスピードのFATBIKEでもゆっくりならサドルに腰掛けてペダルを漕ぐことができた。
道路沿いに鎮座する境内はこじんまりとしている。
狛犬を載せた柱に挟まれた石段を上がるとすぐに鳥居があり、その鳥居をくぐると正面の拝殿まで十五歩。
まずは参拝。

小さな神社とはいえ入口近くには鳥居とは比べものにならないくらい大きなスギとイチョウの木が立っている。
イチョウの胴回りは大人が両手を伸ばして三人抱えくらい。
十月半ばであるがまだまだ暑い日があるせいか黄葉しておらず、青々としていた。

境内でメモをしていると神社近くの鴨部川のせせらぎに混じってハンターが猟銃を撃つ発砲音が聞こえた。

多和神社には論社としてもう一社、志度にも鎮座する。
志度は海に近く当社は山に近いから、存在としてはまったく対照的である。
古くは「大田尾大明神」と呼ばれた当社は弘法大師及び藤原左太夫政富が創始したと由緒に書かれていた。

道路沿いには「延喜式内社撰定一千年明治四十年記念」と書かれた碑が傾きかけながらも立っていた。
式内社調査報告」によれば、近世までは当社が式内多和神社とされていたが、明治初年には志度説が有力となったため、「どちらを是とするか、かなりはげしい論争が生じた」という。
その明治の晩年、世には神社合祀令の嵐が吹き荒れた時期に記念碑まで立てたものの、ときの内務省発行「特撰神明牒」(大正十四年)では志度説が公的に正とされた。

写真は香川県さぬき市。

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