日本の森、モリのニッポン紀行

2020年12月6日からnote版「日本の森、モリのニッポン紀行」(https://note.com/samsil_life)に引っ越しました。

【出雲國】嶋根郡・爾佐能加志能為神社。

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爾佐神社が鎮座する千酌からFATBIKEに乗り海岸沿いの道を西へ向かった。
海沿いの道を走るのは嶋根郡や出雲郡といった日本海沿いの地域を含む郡を回る際の楽しみである。

僕の故郷、名古屋の自宅も海はそれほど遠くない。
だけど島根の海とは、これが海か、というほどの差がある。
工場が建ち並び産業や貿易が中心の名古屋港。
濁った海は透明とは程遠い。

対する島根半島から眺める日本海は同じ海でもそもそも前提条件が違う。
青く澄んだ海、海に浮かぶ奇岩。
目を通して体内に取り込まれるその映像は脳裏に焼きつくだけでなく、蓄積した疲労を少しずつ溶かしてくれた。
休職していた僕が松江暮らしを取り戻し帰名できたのもひとえに松江や島根の風景のおかげだと思っている。

ただしかし、そんな素晴らしい景色の大半は坂を上りきった場所にあるものだ。
特に島根半島ではそうだった。
地図で確認するのが嫌になってしまうほどの上り坂。
爾佐神社から爾佐能加志能為神社までは腸のようにクネクネと曲がった道を経なくてはいけない。

何どもいうようだけど僕のFATBIKEに変速機はない。
それがこだわりだけど、島根半島に限っていえば変速機があった方がいい。
今回得た教訓のひとつである。

爾佐能加志能為神社が鎮座する野井に到着した時点で雨が降ってきた。
レインウェアが必要なくらいだ。
神社の入口にFATBIKEを立てかけて鳥居をくぐって石段を上がった。
石段の手前には巨岩が横たわっていた。
拝殿までは90歩。
参拝後、拝殿の屋根の下でしばらく雨宿りをした。

それにしても爾佐能加志能為神社とは不思議な名前である。
社名を分解すると「爾佐」「加志」「能為」の三つに分かれる。
「爾佐」は東側にある式内爾佐神社と同じ文字が使われている。
「加志」とは旧社地があったといわれる加志島で、「築嶋の続きの加志嶋に鎮座していたが、長元七年八月の大風で吹き流されたので、神體は當浦日御崎神社の合殿にしてゐる」と「式内社調査報告」は説明しているが「築島の続きの加志嶋」というのはどういうことか。

出雲国風土記」嶋根郡の条を見ると加志島と築島(附島)は別々に掲載されている。
国土地理院の地形図を見ても築島はあるけど加志島は見当たらない。
築島も加志島も同じ島だったのではないかと思うけど、「築嶋の続きの加志嶋」というくらいだからやはり別々の島なのだろうか。

一方、神社前の案内板にはこう書かれていた。
野井の神社というのはもともと日御崎神社であり、古代当社の系譜を引く「加無利明神」が零落し、代わりに椎の木をまつっていた。
明治期に日御崎神社に加無利明神を合殿として社名を変更。
旧社地は漁業組合近くとしている。

通りすがりの僕にはどちらの説が正しいのかはっきりとは分からない。
ただ、神社自体が築島を向いていることから島に旧社地があったとしても不思議ではない。
また椎の木を神体としてまつったことについて、対岸の朝鮮半島慶尚道には樹林を聖視する新羅が存在していたことと関係があるのではと勘繰りたくなってくる。

そもそもこの辺りの地名とは関係のなさそうな「爾佐」を冠した神社が隣接してあることも不思議である。
そもそも「爾佐」って日本語なのだろうか。

写真は島根県松江市

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